top of page

指切り、うまくできなかった日

  • 2 日前
  • 読了時間: 4分

その日、地下炭鉱の南通路には、いつもより少しだけやわらかい風が流れていた。地上から染み込んでくる春の気配というやつだろうか。ランタンの灯りが岩肌に揺れ、湿った石の匂いに、どこか甘い香りが混ざっている。

 

カロリーは、その日の朝からずっと落ち着かなかった。理由ははっきりしている。プラムから「散歩に付き合ってほしい」と頼まれたからだ。たったそれだけのこと。けれど、彼にとってはそれが、世界がひっくり返るほどの一大事だった。

 


 

並んで歩く、ただそれだけのことが

 

「カロリーくん、ちょっと歩くの早いよ〜」

 

プラムの声に、カロリーは慌てて立ち止まった。気がつくと、彼女を半歩以上引き離してしまっている。力持ちのドワーフであるカロリーにとって、自分の歩幅を半分にして歩くのは、岩を持ち上げるよりよほど難しい仕事だった。

 

「ご、ごめんよプラム。僕、つい……」

 

「ふふっ、いいの。今日はゆっくり歩きたい気分なんだ」

 

プラムは小さく笑って、頭の上のツインテールを揺らした。その仕草を横目で見ながら、カロリーは耳の先まで赤くなるのを感じた。けれど兜の影に隠れて、たぶんバレてはいない。たぶん。

 

南通路は、ドワーフたちのあいだで「お気に入りの散歩道」と呼ばれている。古い坑道で、今はもう採掘されていないが、ところどころに昔の道具や忘れ物が残されている。運がよければ、地上の人間が落としていった「お宝」に出会えることもある。

 

「ねえねえ、見て見て!」

 

プラムが小走りで岩棚に駆け寄った。そこにあったのは、銀色の小さな箱のようなもの。よく見るとそれは、古いコンパクトカメラだった。レンズの周りに細かな傷が走っているが、シャッターを切ると、かすかに小さな音がする。まだ生きている。

 

「わぁ、可愛い〜!カロリーくん、これすごいよ。ちゃんと動くみたい」

 

「うん、これは……えっと、たぶん昔のフィルムカメラだよ。けっこう古いやつだと思う」

 

カロリーは、知っているふりをして頷いた。本当のところ、彼はカメラのことはあまり詳しくない。それでもプラムが嬉しそうだったから、それで十分だった。

 

 

言葉にならないもの

 

少し進むと、坑道は天井が低くなる場所に差しかかった。カロリーは無意識に手を伸ばし、上から落ちてきそうな小石をそっと払った。プラムが気づかないうちに、岩のくぼみから垂れていた古い縄を端に寄せ、足元の不安定な石をブーツの先で踏みならす。

 

力持ちで、優しい。そう仲間から言われるたび、カロリーは少し誇らしく、そして少し寂しくなる。プラムには、もっと別の言葉で見てほしい気がする。けれど、その「別の言葉」が何なのか、彼自身にもよくわからなかった。

 



「カロリーくんって、いつもね、私の前を歩いてくれるよね」

 

ふいに、プラムがそう言った。カロリーは、心臓が一回大きく跳ねたのを感じた。

 

「え……あ、うん。だって、僕の方が大きいから、何かあったら困るし……」

 

「うん。それがね、嬉しいの」

 

プラムはこちらを振り向きもせず、軽やかに先を歩き始めた。その背中を見つめながら、カロリーは胸の奥に、ぽっと小さな灯りがともった気がした。ランタンよりも、ずっとあたたかい灯りだった。

 

 

宴の支度

 

家に戻る頃には、空気がすっかり涼しくなっていた。プラムは見つけたカメラを大事そうに胸に抱え、鼻歌まじりに歩いている。今夜はきっと、これを肴に宴になる。ロベルトあたりが大げさに騒ぎ、ヘベレケがワインを開け、ノーチェルがカメラの蘊蓄を語り出す。いつもの光景だ。

 



「ねえカロリーくん、今日はありがとう。一緒に歩いてくれて」

 

「い、いいよ。僕、また誘ってくれていいから。いつでも」

 

「ほんと?じゃあ約束ね」

 

プラムは小指を立てて、こちらに差し出した。カロリーの太い指は、彼女の小さな小指にうまく絡まらない。それでも二人は、ぎこちなく指切りをして、互いに笑った。

 

夜の宴では、カロリーはいつも以上に大きな声で笑い、いつも以上にワインを飲んだ。けれど誰も気づかなかった。彼の頬がほんのり赤いのは、酒のせいではないことを。

 

Even a dwarf is strong」。仲間たちはよくそう言って胸を張る。けれど、力持ちのカロリーが今夜知ったのは、強さにはいろんな形があるということだった。岩を持ち上げる強さもあれば、好きな人の半歩後ろを、黙って歩く強さもある。

 

炭鉱の夜は、今日もゆっくりと更けていく。

 

 
 
 

コメント


bottom of page