「バケペンと呼ばれる理由 ― 長老と知識家、煙の向こうの談義」
- 2 日前
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煙る小屋、卓の上の影
夜が深い。地下の小屋の窓には、ろうそくの灯りが一つきり。煙草の煙が天井をなぞり、卓の上には黒い箱が据えられていた。武骨で、重く、角ばっている。誰かが息を呑めば、それだけでこの場の沈黙が割れそうな気配があった。
箱の正体は、ペンタックス PENTAX 67 アイレベル SMC TAKUMAR 105mm F2.4。中判フィルムカメラの一台で、現場では「バケペン」と呼ばれる類のものである。
卓を挟んで二人が向き合っていた。長老のチョウ・ロウは背を丸め、杖を脇に立てかけ、酒を一口だけ含んだ。前髪の隙間から覗く瞳は、灯りを映してわずかに揺れている。向かいに座るノーチェルは、いつもの饒舌を引っ込めて、黒い箱の輪郭をなぞるように指を這わせていた。
「これが、噂の」
ノーチェルが呟いた。
「私はずっと気になっていたのです。なぜ、この機体を皆"バケペン"と呼ぶのか」
長老は答えなかった。グラスを置く音だけが、小屋の空気を一度だけ揺らした。

名の由来、二つの説
「言い伝えがある」
長老が、ようやく口を開いた。声は低く、煙の中に溶けるようだった。
「化ける、と書いてバケ。ペンは、ペンタックスのペンよ。中判の図体で、35mm一眼の顔をしておる。それで化ける、と」
ノーチェルは目を細めた。普段ならここで知識を披露し始めるところだが、今夜は違った。長老の言葉を、ひと粒ずつ拾うように聞いている。
「化ける、というのは……つまり、姿のことですか」
「それも一つ」
長老は短く言った。
「もう一つは、写りよ」
沈黙。ノーチェルは、箱の側面にあるレンズに目を落とした。SMC TAKUMAR 105mm F2.4。中判の標準域を担う一本である。開放F2.4というのは、この大きさのフィルムを使う機体にしては、ずいぶんと欲張った数字だ。
「化けるのですね。シャッターを切った瞬間に」
「そういうことよ」
長老は酒をもう一口含んだ。
「ファインダーで見たものと、上がってきた一枚が、違う顔をしておる。期待以上か、それ以下かは、撮り手次第。だから、化ける」
ノーチェルは小さく頷いた。膝の上の手帳を開きかけて、やめた。今夜の話は、書き留めるものではないと感じたらしい。

傷の数だけ、撮ってきた
長老が立ち上がり、卓の上の箱を、皺の刻まれた手で持ち上げた。ずしりとした重さが、空気を一段沈める。
「トップ部に凹みが一つ」
長老は呟くように告げた。
「擦り傷が、全体に。レンズの中には、薄い曇り。だが、動く」
「動く、というのは」
「シャッターも、巻き上げも、点検済みよ。各部、確かめてある」
ノーチェルは何かを言いかけて、口を閉じた。傷の一つひとつが、この機体が辿ってきた仕事の証であることを、語らずとも察したらしい。誰の手から渡ったのか、何を撮ってきたのか。それは、もう誰にも分からない。けれど、今ここに在る。それだけで充分だった。
「価格は、十二万千」
長老は静かに数字を置いた。
「フロントのキャップが一つ、付いておる。それだけよ」
ノーチェルは深く息を吐き、卓に両手をついた。普段の饒舌は、今夜は最後まで戻ってこなかった。
「私は、この子を、次の持ち主のもとへ送りたい」
「それでよかろう」
長老はそう言って、グラスを空にした。

窓の外で、地下の風が鳴った。煙草の煙はゆっくりと天井を上り、ろうそくの灯りは黒い箱の輪郭を、ふちどるように照らしていた。化けるカメラは、卓の上で静かに次の出番を待っている。誰の手のひらで、どんな一枚に化けるのか。それは、撮る者の覚悟次第である。
この夜の卓に据えられた一台は、こちらの商品ページから引き取ることができる。傷も曇りも、すべて含めて一台の重みだ。受け止められる者だけが、次のシャッターを切ればいい。



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